「この子は二十歳まで生きられません」

私は日本で最初に「出版プロデューサー」を職業として名乗り、たくさんの書籍作

りに関わってきました。

なぜ、私が出版という世界に入り、本作りのお手伝いを始めたのか、ちょっと自己

紹介をさせてください。

 

私は新潟県の六日町という山奥の村に生まれました。
ここは豪雪地帯でも有名で、毎年、雪が2メートルも積もります。
スキー場と温泉と田んぼしかないところです。
唯一、有名なのは「八海山」という全国ブランドのお酒と、第64代の内閣総理大臣、

田中角栄の選挙区だったことでしょうか。

 

私は小さいときから先天性の病気があり、心臓に1㎝ほどの大きな穴が開いていま

した。「心室中隔欠損症」という病名です。

 

静脈と動脈の血が心臓の中で混ざり合い、正しく血液が体中に送られないのです。
たまたま血管が穴をふさぐ形で覆っていて、死には至らなかったようです。

病気が見つかったのは5歳くらいのときで、地元の医者は「この子は二十歳まで生

きられないだろう」と言いました。

 

昔は確かにそうだったのですが、昭和40年代にはすでに医療技術も発達し、10歳の

ときに心臓の手術をしてから、今では人一倍元気です。

 

なぜ、私が自分で本を書いたり、他の作家の出版を手伝うようになったかと言うと、

小さいころ心臓が弱くて外を駆け回って遊ぶことができなかったからです。

村では子どもたちは、小学校1年生から6年生まで一緒に遊んでいました。

よく、村はずれのお寺や神社の境内で、陣取り合戦やかくれんぼをして遊びました。

すると、私が走っている姿をみた近所のおばちゃんたちが、
「この子は心臓が悪いんだから、走らせたらダメだよ」
と、とてもシラけるようなことをいうのです。

 

心臓の手術をするまでの数年間、また、入院中のベッドの中でも、私の唯一の友だち

は、世界名作全集や日本の昔話などの本でした。
現在、私が生きていられるのは、当時、私を勇気づけてくれたたくさんの本のお陰で

す。

 

ですから、私は、本に、恩返しをしたいと思いました。

そこで大学を卒業してからたくさんの童話を書き、絵本や紙芝居を作り、さらにこの

感動を他の方ともわかち合いたいと思い、本を書きたい人をプロデュースするように

なったのです。

 

幼少期の「いい本」との出会いが私の人生を決定しました。

必要な本を必要としている人に届けたいと思い、そんな「いい本」を1冊でも自分の

手によって送り出したいと思い、私は生涯をかけて本作りに取り組んでいます。


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